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聖地を潤し、国家を支える。和歌山県有田川流域における「六木」のエコシステムと水運物流

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#和歌山県#有田街道#自然環境#高野山

 和歌山県を流れる有田川の流域は、山上の聖地・高野山と海の玄関口である箕島港、そして旅人が行き交った熊野古道(紀伊路)を結ぶ、物流と信仰の大切な通り道でした。この山深い地域で暮らしてきた先人たちは、豊かな森の「木材」を活かし、急峻な山の地形に適応し、過酷な環境のなかで力強く生活を維持してきました。本稿では、中世の荘園をめぐる争いから、江戸時代の厳格な森のルール、そして独自の農業へと受け継がれてきた歴史の歩みをご紹介します。

1.阿弖河荘を巡る闘争

 中世、有田川の上流域は「阿弖河荘(あてがわのしょう)」と呼ばれる荘園でした。山中の静かな農村のように思えますが、実は建物に適した良質な木材や綿を産出する場所として、当時の有力者たちから熱い視線を浴びていたようです。

 そのため、この地をめぐっては激しい権力争いが繰り広げられます。阿弖河荘の持ち主(本家)であった京都の有力寺院「円満院(三井寺)」や領家、そして現地を武力で実効支配する地頭「湯浅氏」が権利を主張する一方で、すぐ近くの高野山も「弘法大師御手印縁起に書かれており本来は高野山の寺領だ」と主張して譲りませんでした。

 こうした三つ巴の領地争いのしわ寄せを受けたのが、現地で暮らす農民たちです。度重なる大水害で田畑が流され困り果てていた農民たちに対し、地頭の湯浅氏はさらに無理な材木の取り立てを行いました。耐えかねた農民たちが1275年(建治元年)に地頭の非道を訴えた「片仮名書申状(阿弖河荘上村百姓等申状)」は、当時の厳しい社会情勢を今に伝える貴重な史料となっています。

2.二つの「六木制度」

 中世の争いや無秩序な伐採を経て、江戸時代になると、流域の豊かな森林資源は「高野山」と「紀州藩」という二つの力によって計画的に守られるようになります。その象徴が、それぞれの目的で指定された「六木(ろくぼく)」という制度です。

  • 高野六木(高野山)
     スギ、ヒノキ、コウヤマキ、モミ、ツガ、アカマツを指定。度重なる火災や老朽化から木造寺院を再建・維持するため、建築用材の自給を目的として大切に育てられました。日々の祈りに欠かせない仏花として、コウヤマキの枝も利用されています。
  • 紀州藩の六木(御留木)
     スギ、ヒノキ、マツ、クスノキ、ケヤキ、カヤを指定。城の修繕や船の材料として使われるクスノキや高級木材を含み、藩の軍事力や経済力を支える大切な資源として、一般の伐採が厳しく禁じられました。
制度名管理主体六木用途
高野六木高野山スギ、ヒノキ、コウヤマキ、モミ、ツガ、アカマツ寺院の建築・修繕、仏花。
御留木紀州藩スギ、ヒノキ、マツ、クスノキ、ケヤキ、カヤ造船、建材、藩経済。

 祈りの空間を守るための高野山と、藩の力を支えるための紀州藩。それぞれの目的によって、森を守る厳格な仕組みが築かれていきました。

3.材木の港への輸送

 伐り出された木材は、有田川の地形特性に合わせた二つの手法で運搬されていました。

  • 管流し(カリカワ)
     川幅が狭く岩の多い上流部(清水や花園周辺)では、丸太を一本ずつバラバラに川へ流しました。熟練の職人たちが「丸太乗り」となって川をくだり、木が引っかからないよう下流へ送り出しました。
  • 筏流し
     
    川幅が広くなる中流の土場で丸太を引き上げ、四角い「筏(いかだ)」に組み直しました。ここからは筏師が巧みに竿を操り、河口近くの有田・箕島方面の木材市場まで一気に運んでいきました。

 この有田川の水運は、昭和28年の大水害や戦後のトラック輸送の普及まで、地域の暮らしと経済を支え続けたようです。

4.名産「ぶどう山椒」および仏花の栽培

 山あいの農民たちは平地の少なさと急な斜面を克服するため、土地を無駄なく使う独自の工夫を生み出しました。その代表が、特産品である「ぶどう山椒」や仏花の栽培です。

 農民たちは、急斜面を切り拓いた棚田のあぜ道や石垣、家の裏手のわずかな隙間を見逃さず、山椒やコウヤマキ、シキミを植えました。これらは、山上の宗教都市・高野山で日々使われる精進料理の薬味や漢方薬、寺院のお供え花として、安定した買い手がありました。

 この地域の山椒栽培は古く、平安時代の『延喜式』や鎌倉時代の『高野山文書』にも記録が残されています。江戸時代には大粒で肉厚な優良品種「ぶどう山椒」が見出され、現在では全国一の生産量を誇る一大産地へと発展を遂げました。田んぼで米を栽培しながら、高野山の需要に合わせた特産品を育てることで、厳しい山あいの暮らしを成り立たせていたのです。

5.過去から未来へつながる循環のかたち

 こうして振り返ると、有田川流域において木材は川の流れに乗って下流の市場へ下り、山の暮らしを支える特産物や信仰は街道を通って山上の聖地へと登っていくという、水と道を通じた見事な循環ができあがっていたことがよく分かります。

 現代でも、高野山金剛峯寺は独自の山林部を持ち、外部市場に頼らず、数百年のスパンで苗木を育て、将来の伽藍修復に備える為に約1,000ヘクタールの森林を直接管理しています。この森づくりの知恵と、有田川上流の棚田や山の斜面を活かした農業は、「聖地 高野山と有田川上流域を結ぶ持続的農林業システム」として日本農業遺産にも認定されました。

 有田川流域の美しい景色は、昔の人々が自然と向き合い、知恵を絞って暮らしを紡いできた歴史が、今も生き生きと息づいている証拠なのです。

参考文献・参考資料

  1. 有田川町教育委員会(2019)『蘭島及び三田・清水の農山村景観保存計画』有田川町.
  2. 湯浅町(2016)『湯浅町歴史的風致維持向上計画』湯浅町.
  3. 笠原正夫(2005)「近世初期の森林資源の開発と熊野」『紀州経済史文化史研究所紀要』26,185-202.
  4. 高野山・有田川流域世界農業遺産推進協議会(2021)『聖地 高野山と有田川上流域を結ぶ持続的農林業システム』高野山・有田川流域世界農業遺産推進協議会.